現代版「芝浜」10

(これは、古典落語の演目である「芝浜」という話を元に創作したフィクションです。)

現代版「芝浜」1
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-cc30.html

現代版「芝浜」2
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-9ef9.html

現代版「芝浜」3
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-7cda.html

現代版「芝浜」4
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-81e1.html

現代版「芝浜」5
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-422b.html

現代版「芝浜」6
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-eb6e.html

現代版「芝浜」7
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-21bf.html

現代版「芝浜」8
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-936a.html

現代版「芝浜」9
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-1751.html

何かあてがあった訳でもなければ、私にとってタイという国が近しい国だった訳でもありません。私がそれまでにタイに行った事と言えば、新婚旅行の折に飛行機の乗り換えの為にタイの空港を利用しただけだったのですから。とにかく私は逃亡先にタイという国を選びました。

空港に降り立った瞬間、むわっとする暑い空気を感じました。日本とは違う、湿度の高い、じめじめとした暑さです。

飛行機に乗っていた時間というのは大した時間ではありませんでしたから、肉体的な疲労はさほどでもなかったのですが、これから、まるで環境の異なる異国で暫らくを過ごすのだ、という精神的な緊張とその気候の変化が相重なって、私はいささかの倦怠感を覚えていました。傍らの彼女もやはり同様でした。

大丈夫か、と私が尋ねると、彼女は鷹揚に頷きました。

私たちは空港を出て、取り敢えずのその日の宿を探す為にタクシーに乗りました。住み着く家は翌日以降に探せば良い、まずは今日の家と飯だ、そんな事を話し合いながら。

タイという国は、思った以上に文明的には発達した国なのだな、と私はタクシーの中でぼんやりと思いました。私の先入観もあったのかも知れませんが、アジアの発展途上国、そんなイメージでタイという国を捉えていた私は、タクシーの車窓の外を流れていく高層ビル群に、何とも言えない違和感を覚えました。そこは日本の東京や大阪のようですらありました。ビルの上には日本や欧米の大企業の広告看板などもちらほらと見え、まさしく都会という佇まいでした。いつしかテレビで見た農村や路地裏の風景、つまり私たちがステレオタイプのように脳裏に抱いていた、雑然としたアジアの原風景とは全くの別世界でした。

「思っていた以上に綺麗な所ね」

傍らの彼女がそう言いました。

これなら案外快適に暮らせるかもしれないな、私はそう答えました。

タイにはチャオプラヤ川という大きな川が流れています。タイの首都バンコクを中心に流れる大きな川です。私たちは、まずその河畔を目指しました。私たちは、生活必需品は現地で揃えればそれで済むと思っていましたので、荷物はさほどでもありませんでしたから、タクシーを降りて少し河畔を散歩しました。

そこで私たちはタイという国の現実をしばし垣間見ました。

川べりでは空港周辺の無機質なビル群とは対照的にトタン造りの家で、いえ、ほぼ路上で、と言った方が正しいのかも知れません、そこで暮らす人々が多数いるのを目の当たりにしました。何か夢でも見ているかのような錯覚に襲われました。その数分前までは、いかにも都会然とした風景を見て、そこから車で十数分行っただけの距離の所で、それとは随分とかけ離れている生活が実際に営まれていたのですから。それは地続きな同じ国の風景ではなく、数分の間に瞬間移動をして、全く異なった国の風景を見ているかのようでした。

路上で暮らす人々の地域のすぐ横には、再び洗練されたホテルが数軒並んでそびえ立っていました。光と闇、太陽と月、沈黙と喧騒。そういったものが表裏一体になっている、そんな国の姿を、私は見たような気がしました。

私たちは、日も暮れかかった頃、近くにある適当なホテルにチェックインを済ませ、その日は眠りに就きました。

翌日、住むべき家を探す為に、私たちはバンコクの街中へと出ました。

バンコクという街には、思った以上に日本人がたくさんいました。旅行者が多いのは勿論の事ですが、そこに住み着いた日本人というのも少なくはありませんでした。不動産屋を回ろうとしていたその時に、私たちは一人の日本人と出会いました。

(つづく)

| | コメント (44)

現代版「芝浜」9

(これは、古典落語の演目である「芝浜」という話を元に創作したフィクションです。)

現代版「芝浜」1
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-cc30.html

現代版「芝浜」2
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-9ef9.html

現代版「芝浜」3
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-7cda.html

現代版「芝浜」4
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-81e1.html

現代版「芝浜」5
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-422b.html

現代版「芝浜」6
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-eb6e.html

現代版「芝浜」7
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-21bf.html

現代版「芝浜」8
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-936a.html

「お前の事情はわかった。およそ、な」

俺がそう言うと、高橋は下を向いた。何か、続ける言葉を探しているようにも見えたし、単に決まりが悪くて俺と視線を合わせないようにしているようにも見えた。俺は、続けて言った。

「その事情を聞いて納得する事は出来るが、お前のした事を許す気には到底ならない。それはわかるな」

高橋は小さく頷いた。

「みなそれぞれに事情がある。お前がどこまで知っているのかは知らないが、あの後、俺は随分と辛酸を舐めた。無論、俺が弱かったせいもあるが、結果としてはお前がいなくなったその日を契機にして俺の人生は狂い始めた。俺はお前を憎んでいる。それはそんなにお門違いな事ではないだろう」

俺はそう言った。言ってから脳裏で自分の言葉を反芻した。

憎んでいる。

それは確かな事だった。しかし、それを殊更に口に出して、眼前の高橋を責める自分にいささかの羞恥を覚えた。俺には俺の怠惰があり、堕落があった。それをまるで、高橋という眼前の男に全て押し付けて、悲劇の主人公を気取ろうとしているだけではないのか。そう考えると、何となく鬱陶しくなった。

二本目の煙草をくわえてから、俺は言った。

「まあ良い。そうやって俺の会社の金に手を付けてお前は逃げた、そこまではわかった。しかし、何故その後ここまでになった。つまり、一度沈んだお前が何故ここまで浮かび上がってきた。教えてくれないか」

そう言ってから、そんな事を聞いてどうするのだ、とも自問したが、純粋に興味を惹かれていた。その、絶望から今の栄光への物語に。俺は正直に付け足した。

「興味が、ある」

下を向いていた高橋が、ゆっくりと顔を上げ、再度俺の顔を見据えた。

「お話しします」

そう、言った。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

金額にして五千万、私は勝さんの金を持って逃げました。よく自分でもああいった真似が出来たと思います。事の善悪、という事もそうですが、後先を考えずによくも、という事です。私自身は穏やかに生きてきて、そういった熱病のようなものとは無縁の人生だとは思っていました。真面目な事ぐらいしか取り柄もないのだから、と。ですが、いざ自分がそうなってしまえば本当に目先の事しか考えられなくなるのですね。その後どうする、その事は私には全く考えられていませんでした。

私はソープランドに行って、その金を差し出しました。明らかに支配人が動揺していたのがわかりました。支配人は私に

「あんた、これ、綺麗な金かい」

と尋ねました。勿論、綺麗な金の筈がありませんが、私はそこで咄嗟の嘘をつく事も出来ませんでしたし、正直に答える事も憚られました。ただ俯いていると、支配人が再び口を開きました。

「あんたはきちんとこうして五千万円を持ってきた。それは認めるし、約束通り女はあんたに渡す。ただね、こっちとしても少し心配はあるんだ。この金が綺麗な金じゃないのは凡そ見当はつく。あんた、多分危ない橋を渡ったんだろ」

出所は聞かないでくれ、私はそう返しました。

「聞かないけどさ、でもこういう金が出回っちまうと、こっちの筋の人間が動き出すことがよくあるんだよ」

そう言って支配人の男は左手の人差し指で自分の頬を縦になぞるような仕草をしました。

「あんた、ウチには迷惑かからないように、きちんと口を閉ざしてくれんのかい。それが約束出来てからだ、女を返すのは」

私は、とりあえずすぐに女と逃げる心づもりではいる、と伝えました。仮に何らかの追っ手に見つかったとしても、その金の使い道は、つまりこのソープランドの事は一切口外しない、と言うと支配人の男はしぶしぶ納得した様子でした。

その時、私にはもう一つの考えがありました。

そもそも、勝さん、あなたは多分私を追わないだろう、という確信にも似た推測がどこかにあったのです。

あなたの傍で仕事をさせて頂いていて、あなたの人柄を見ている内に、私は何となくそう考えていたのです。恐らく、あなたはその金を取り返す事を優先するよりも、新たな打開策を練る人だ、と。それは多分間違っていなかったのだと思います。つまりそこに付け込んだような格好です。本当に酷い話ですが。

暫くすると、私が取り返したかった、ソープ嬢だった女が奥の部屋から出て来ました。支配人は女に「ご苦労さん」と軽く言うと、女の方も「お世話になりました」と挨拶をしました。妙に淡々とした光景なのだな、と思ったのを覚えています。

吉原のソープランドを出てから、暫く二人で無言で歩きました。何かを話さなくてはいけない、そうは思ったのですが、重い空気が漂って、ただ、無言で歩きました。

浅草まで来た辺りで、喫茶店に入りました。

コーヒーを二つ頼んで、二人してそれを啜りました。

迷惑な事を、お節介な真似をしてしまったのだろうか、と私は彼女に聞きました。彼女はゆっくりと静かな声で、それに答えました。

「仕事を辞められた事は、純粋に嬉しいの。私だって早く辞めたかったんだもの。ただ、正直に言って、私はあなたに付いて行けるかどうかわからないわ」

それはどういう事だ、と私は尋ねました。

「自分でもよくわからないのよ」

彼女はそう言いました。

「これからどうなるの?」

続けてそう聞いてきました。

まずは彼女の元からの借金を残った金で返済する、そしてしばらくはほとぼりが冷めるまでどこかの外国に身を隠すしかない、妻とは別れる。私はそう答えました。

「何だか知らない内に色んな事が変わっていく。あなたは私をとても愛してくれているのはわかるわ。借金がなくなるのも嬉しいし、もうあんな所で働かなくて済むのも嬉しい。でも、何だかその変化に自分が付いて行ってないのよ」

彼女は、そう言ってため息を吐きました。

「仕事で知らない男に抱かれて、嫌だなあ、気持ち悪いなあ、なんて思ったりもして、帰りにコンビニで一本だけビールを買うの。家に帰ってからお風呂に入って、何だか石鹸でいくら洗っても私の汚れは落ちないような気がして。でも仕方がないな、なんて思いながらお風呂から上がって買ってきたビールを呑むの。たまには贅沢だと思って、あなたと出会ったあの小料理屋に行って、ちょっと美味しいお酒と料理。最近ではあなたとも一緒出来たから、とっても楽しかったの。あなたと付き合うようになって、あなたと逢っている時はとても安らかに過ごせたわ。あなたが抱いてくれるのが一番心地良かったんだもの」

私も、安らかだった、と告白しました。

「でもね、その生活そのものに、私は満足していたのかも知れない。安っぽい、惨めな暮らしも悪くない、そんな事を私は思っていたのかも知れない、今はそう思ったりもするわ。
あなたは私を救ってくれる。そこには独占欲や嫉妬みたいなものもあったのかも知れない、でもそれはやっぱりあなたが私の事を愛してくれていたからだと思うの」

そうだ、私は君を愛している、そう答えました。

「さっきあなたが言ったように、お金の事をどうにかしてもらって、しばらくひっそりと外国で暮らす、それも悪くないな、って思うの。でも、私はひょっとしたらそれでダメになってしまうかも知れない。何て言ったら良いんだろう、自分の足で立てなくなるような、そんな気がするのね。あなたに寄りかかっていないと立てないような、そんな気がするの」

私は思案しました。

言われてから、ふと我に返ったようになりました。

そうか、私は或いは彼女の事を傀儡人形のように、自分の意のままにしようとしているだけではないのだろうか、そんな事を考えました。躊躇しました。

けれど、もう私は後には引き返せなかったのです。意を決して、それでも私に付いて来てくれ、と頼み込みました。彼女は困ったような表情を浮かべていましたが最終的には、分かった、と言ってくれました。

二人で喫茶店を出た後に、彼女の借金の残りを返済して、私が数日前に街金業者から借りた金も返済しました。全ては勝さんの会社の金を持って逃げた金から賄いました。街金業者は、一千万円近い借金を数日で返すので、随分と訝っていました。それもそうだと思います。

「もう良いよ、出所は聞かない、こっちは返すものを返してもらえりゃそれで良いんだ」

そんな事を言っていたと思います。ソープランドの支配人の男とあまりにも同じ反応で、私は少し可笑しくなってしまいました。

その翌日、私は、家に離婚届を置いて、彼女と二人で日本を出ました。

妻にしてみれば青天の霹靂だったと思います。

私たちは、タイへ行きました。

(つづく)

| | コメント (0)

現代版「芝浜」8

(これは、古典落語の演目である「芝浜」という話を元に創作したフィクションです。)

現代版「芝浜」1
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-cc30.html

現代版「芝浜」2
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-9ef9.html

現代版「芝浜」3
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-7cda.html

現代版「芝浜」4
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-81e1.html

現代版「芝浜」5
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-422b.html

現代版「芝浜」6
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-eb6e.html

現代版「芝浜」7
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-21bf.html

「ご苦労様、下がっていてくれ」

高橋は俺を案内した女にそう言ってから、俺を社長室へ迎え入れた。奇妙な、二人きりの空間だった。

「ご無沙汰しております」

高橋が深々と頭を下げた。

「ああ」

答えてから、俺はその社長室をぐるりと見回した。何から何まで現実感がなかった。木製の立派な机に備え付けられた革張りの大きな椅子、虎の形をした陶器の置物。そういった仔細な部分が俺の現実感を稀薄にさせる。俺は落ち着きの無い子供のように辺りを見回していた。

「すごいものだな」

俺は無意識にぽつりと呟いた。

「はい、はっきり言って自分でもあまり信じられません」

そう言って高橋がぎこちなく苦笑する。まだ表情は硬い。

「どこから、謝って良いものか」

そう言ったきり高橋は下を向いた。

俺も言葉に詰まった。何とも気まずい沈黙が流れる。

「灰皿、貸してくれ」

煙草をくわえてから俺が言うと、高橋は俯いた顔を上げて戸棚からガラス製の大きな灰皿を手に取り、テーブルの上に置いた。

「座るぞ」

俺はそう言ってテーブルの前のソファーに腰掛けた。続いて、ゆっくりと高橋が向かいのソファーに腰を下ろす。文字通り、俺と対峙した。

煙草に火を点けた。幾らか、沈黙が和らいだような気がした。

「少し、聞いても良いか」

「はい」

言い出したのは俺の方だが、上手く言葉が続かない。頭の中で言葉の整理がまだつかぬままで、俺は次の言葉を紡ぎ出す。

「何故、会社の金を、俺の金を盗った」

俺はそう訊ねた。今日、ここへ来た目的の一つは、それを聞く事だった。過去の清算、それは俺にとっても重要な意味を持つ事だった。

高橋は、唐突とも言える俺からの問い掛けに明らかに動揺していたが、暫くすると少し心を落ち着かせたようで、徐々に話し始めた。

「あの時」

高橋がそう言い始めた所で、俺が高橋をしっかりと見詰めた。きちんと聞こう。俺なりのそういった決意表明だった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

あの時、私には付き合っていた女がいました。妻とは別に、です。綺麗な女でしたが、結論から言えばこの女の為に会社の、勝さんの金に手を付けた、という事になります。よくある出来事と言えばそれまでなのですが、私の生涯で一番消し去りたい出来事です。

その女と知り合ったのは呑み屋でした。仕事帰りに一人でたまに、週に一、二回行っていた小料理屋があったのですが、そこで知り合いました。彼女もまた一人で呑んでいまして、その日は少し世間話をしただけでした。

その後、数回その小料理屋で彼女と会う事がありました。約束をして落ち合っていた訳ではないのですが、お互い一人同士、その度に私と彼女は簡単な会話をして、共に酒を呑みました。何でもない事だったのですが、愉しかったのです。私の心にすっと染み込んでくるようで、次第に彼女に惹かれていく私がいました。勿論、一時の気の迷いだと自分で自分に言い聞かせてはいましたが。

ある日、その小料理屋で再び席を共にした時に、彼女の方から私を誘う事がありました。もう一軒、付き合ってくれないか、と。私は快く二つ返事で応じました。

その晩、私は彼女と寝ました。

それ以来、私は年甲斐もなく彼女に夢中になりました。妻に隠れて彼女と会うようになり、会う度に彼女と寝ました。

ある時に彼女が自分の身の上話をしてくれた事がありました。

北海道で生まれ育ち、両親の会社の倒産に伴って一家離散、東京で夜の仕事をしながら細々と借金を返し、日々暮らしているという事を。

これもまた、実際にはありふれた話で、私自身もそういった話を聞いた時に何の感慨もありませんでした。嘘か本当かもわからない話に、そこまでの感情移入は出来なかったのです。

私は彼女が話した中で、夜の仕事という部分が気になり、ある日彼女に問い詰めた事がありました。当初彼女の口は重く、なかなか話してはくれませんでしたが、私に根負けした格好で明かしてくれました。

夜の仕事、と聞いて、希望的観測のもとにホステスであろうというぐらいに思っていたのですが、彼女は実際には吉原のソープ嬢でした。

私は恐ろしい程に嫉妬の情を抱きました。

私自身が妻を持つ身でありながら不倫などに現を抜かしている事を棚に上げて、極めて理不尽な怒りにも似た嫉妬を感じたのです。

私以外の誰かに日々この女は抱かれているのかと思うと、本当に身をつまされる思いでした。

一度、彼女の働いていたソープランドに行った事があります。華やかな電飾の外見とは対照的に、中は薄暗く、黴臭い部屋でした。客としての私の姿を見た時に、彼女はばつの悪そうな微笑を浮かべていたのを覚えています。

その部屋の陰鬱さに包まれた時に、それまでに感じていた嫉妬のような感情が私の中で爆ぜました。

私はその陰鬱とした部屋を飛び出して、ソープランドの受付へと向かいました。

あの女を、ここから抜け出させたいんだが。

私は支配人を呼び、そう言いました。

支配人は呆気に取られていたようで、返答に窮していました。暫くしてから苦笑して、

「あのね、女の子に夢中になるのはわかるけど、あの娘もこっちも商売なんだよ。無茶な事言わないでよ」

そんな言葉で窘められました。けれど私はもはや引く事は出来ませんでした。

金を、払う。

そう言いました。

「払うったってね、お客さん、何百万っていう話じゃないんだよ」

焦っていたのかも知れません。私は、三千万でどうだ、と持ち掛けました。

支配人は少し思案してから首を横に振りました。

「それじゃあ足りないよ。五千万、最低でもそれぐらいはいる」

そう言いました。

相場などわかりませんから、或いはふっかけられていたのかも知れません。けれど私は、それにあっさりと応じました。

一週間、待ってくれ。ここに五千万、きっちりと持ってくる。そう答えました。

その晩、私は彼女を呼び出して事の次第を話しました。彼女は、気持ちは嬉しいが、お願いだからやめてくれ、そう言いました。けれども、私には最早自分を止める術などありませんでした。

自分の貯金をかき集め、街金業者に借金をし、四千万円が手許に集まりました。

それでも一千万円が足りない。彼女をソープランドから抜け出させた所で、彼女の元からの借金がある。私の生活もある。そう思った時に、私は会社の、勝さんの金に手を付ける事を考えました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

俺はそこで一度、話の腰を折った。

(つづく)

| | コメント (0)

現代版「芝浜」7

(これは、古典落語の演目である「芝浜」という話を元に創作したフィクションです。)

現代版「芝浜」1
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-cc30.html

現代版「芝浜」2
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-9ef9.html

現代版「芝浜」3
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-7cda.html

現代版「芝浜」4
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-81e1.html

現代版「芝浜」5
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-422b.html

現代版「芝浜」6
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-eb6e.html

玄関先で奇妙な感覚に襲われた。数日前ここで、俺よりも一足早く、明子は高橋との邂逅を果たしていたのだ。

あの野郎、どんな面をして俺の家へ来やがった。

内心ではきつい言葉で悪態をつくが、それとは裏腹に心は平静を保っていた。何よりも、嘗て俺の会社に高橋という男がいた事、奴が会社の金を盗んだ事、そして俺が転落していった事、それら全てが奇妙に他人事のように感じられていたのだ。

現在は過去の堆積かも知れない。しかし、そういった理屈とは別の所で、極めて感覚的な部分で、俺は俺の過去と現在とが乖離し、隔たれているような感覚の中にいた。

それは絶えず見続けた悪夢の所以かも知れない。暗い箱の中で見知らぬ何物かの血によって埋められていく、あの夢だ。

悪夢は現実と非現実との境界を曖昧にし、過去と現在との繋がりを稀薄にした。

そして未来は?

考えた所で鬱陶しくなった。未来などわかるものか。俺はこれから芝までの道すがら、唐突にやってきてトラックに跳ねられてあっけなく事切れる事だって有り得るのだ。兎にも角にも、茫漠たる現在を生きるより外ない。それが、今の俺に出来る唯一無二の事だ。玄関先で足を止めていてはならないのだ。

俺は、芝へと足を進めた。

俺の家から芝までは、電車を乗り継いで一時間ほどだった。酒を買いに行く以外に外へ出ていなかった程だ。電車に乗るなど、随分久しぶりの事だった。最後に電車に乗ったのはいつだ、と思い出そうとしてみたが、やはり記憶は余りにも曖昧で、思い出す事は出来なかった。

そんな取り留めのない事を考えながら10分ばかり歩いていたら、久しぶりに最寄りの駅へとやって来た。改札口に飾られた昔の相撲取りの銅像が、相も変わらず虚しく自己主張をしている事こそ以前とは変わらなかったが、切符の買い方で戸惑った。周囲の人間達を見れば、皆改札機に財布やらカードケースやらをかざしている。どうやらあれが切符の変わりらしいが、俺がそんなものを持っている筈もない。あのカードのようなものを持ってない人間はどうやって電車に乗ったら良いのだ、と駅員を呼んでみたが、恥をかいたのは俺の方だった。普通に券売機で切符を買えば良い、それで電車には乗れる、と適当にあしらわれた。少々赤面したが、素直にそれに従った。

駅には、昼間から酒を呑み、地べたに座り込みながら目を濁らせたホームレスの姿があった。俺もあんな目をしながら酒を呑んでいたのかと考えると、やるせなくなった。一瞬そのホームレスと目が合ったが、即座に俺は目を逸らした。何とも言えない気まずさがあった。

プラットフォームに昇り、電車に乗り込む。電車に揺られながら、車内の様々の人を見た。何故だか俺の脳裏には鳥獣戯画の絵が連想されて浮かんできた。皆が皆、携帯電話を弄び、耳にイヤフォンを差し、文庫本を読み耽る。これだけの数の人間が一堂にいると言うのに、その人生同士はすれ違うばかりだ。決して交錯は、しない。これはこれで可笑しな光景だ。俺が軽く電車の座席で苦笑すると、隣の女が俺を訝しんだ。そうか、それもマナーの一つなのだな、と自分を納得させた。

程なくして電車は乗り換えの駅である秋葉原へと着いた。山手線へと乗り換える。芝まではあと少しだ。そう考えると、心もざわめきだった。

どんな面を下げて高橋は俺の家に来たのだろう。先程から侮蔑混じりにそう考えていたが、逆に俺はどんな顔をしてあいつの元を訪ねれば良い。そう考えるといささか憂鬱になった。

電車は浜松町の駅へ着いた。高橋が置いていった名刺の住所は、ここから少し歩いた所だ。

海が近いせいもあって、街にはうっすらと潮の匂いが漂っていた。俺の視界の両側には高層ビルが立ち並ぶ。高価そうな背広を着込んだサラリーマン達が、ビルの中から出て来てはどこかへと消え、また次々と別の人間がビルの中へ吸い込まれていく。数億の途方もない金が、金としてではなく数字として取り扱われているのか。そんな事を思った。まるで遠い世界の戦争を思うかのように。酷く非現実的な他人事として。

高橋の会社へと歩みを進める。次第に俺の不安は高まってきた。それと同時に、覚悟もまた、決まりつつあった。

俺は明子が口にした言葉を脳裏で反芻した。 金の為、それもあるが、これは一つの区切りなのだ。

「あたし達夫婦が、あの時の出来事に区切りをつける」

その為に。

いよいよ潮の匂いもきつくなり、まさに海辺、芝の浜という所に高橋の会社はあった。そこへ至るまでに何軒もの高層ビルを見たが、一際高く、高橋の会社はそびえ立っていた。

意を決して、ビルの中へと歩みを進める。受付の若い女が入り口に座っていた。

「高橋から呼ばれてやってきた。勝、と言えばわかる」

俺は自ら名乗った。

少々慌てたように、受付の若い女が内線電話をかける。

「勝様とおっしゃる方が、社長に、といらっしゃってます」

俺は不遜な面持ちでその女の対応を待つ。

ええ、ええ、かしこまりました。

女のそんな言葉をぼんやりと聞いた。

女が静かに受話器を置き、俺の方へと向き直った。

「勝様、お待ちしておりました、との事です。今から社長室へとご案内致します」

そう言って、俺を大きなエレベーターの前へと誘導した。

臙脂色の絨毯が張られたそのエレベーターは、相応の金がかけられている事は容易に想像出来たが、それ以上に無機質な印象を受けた。俺が万年床と酒屋ばかりを往復していたその世界と今ここにある世界とは、まるで同じ世界とは思えなかった。

チン、という音と共に、エレベーターが最上階へと到着した。

扉がゆっくりと開く。

そこに、高橋が、いた。

(つづく)

| | コメント (0)

現代版「芝浜」6

(これは、古典落語の演目である「芝浜」という話を元に創作したフィクションです。)

現代版「芝浜」1
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-cc30.html

現代版「芝浜」2
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-9ef9.html

現代版「芝浜」3
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-7cda.html

現代版「芝浜」4
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-81e1.html

現代版「芝浜」5
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-422b.html

「芝、か。わかった」

俺はその名刺を適当にズボンのポケットにねじ込んだ。

様々な物事を、少し頭の中で整理する必要があった。

「風呂に、入りたいんだが」

俺が明子にそう言うと、喋り疲れてぐったりしていたように見えた明子が、再びゼンマイを巻いたかのように活発に動き出した。

「待っていて下さいね、すぐに沸きますから」

明子は言うや否や直ぐに風呂場へと向かった。俺は、何だか手持ち無沙汰になって、煙草を一本くわえ、火を点けた。

少しずつ、何かが動き出そうとしている。そういった予感が、確かに俺の中にあった。高橋との邂逅によって、何かが変わっていくのだ、という予感が。少なくとも高橋が持ち逃げした金が戻って来れば、俺の生活は変わる。何か事を興す種にも、十分になりうる。何かが、変わるのかも知れない。

だが、その予感の中で、困惑もしていた。この停滞した生活から抜け出す為の変化、どこかで必ず変化は必要なのだが、果たして全体、俺がその変化を心待ちにしているのかと思えば、そこには幾つかの疑問符が付いた。

俺は俺で、この停滞を、この泥濘の日々を、どこかで心地良く感じていた。ただひたすらに日々を擦り減らし、「生の純度」を薄めていく。何の刺激も喜びもない。漠然とした不安が俺を覆っていくが、それもまた心地良くすらあった。

何かが、変わる。俺は再び世間に出るのか?そう考えた。

隔絶され、切り落とされたような今のこの俺の世界が変化を遂げるのだろうか、と。

変化を求める俺も、未だに過去に築いた自信を引きずる俺も、そこにいた。

昔、俺が小学生だった頃、学校の運動会で、父兄参加型の短距離走があった。亡くなった親父が、調子づいてそれに参加した。子供である俺の前で良いところを見せようと必死だったのかも知れないが、親父はトラックの二つ目のコーナーを曲がりきれずに、足がもつれて横転した。今、俺はその親父の姿を思い浮かべている。横臥する親父の姿を。あれは、親父の頭の中、つまりイメージと現実との齟齬だ。イメージの中では足は出る、だから上半身は前へ前へと進もうとするが、肝心要めの下半身が付いていかない。結果、前のめりになり足がもつれて横転する。落ち目の相撲取りにもよく見る光景だ。隆盛を極めた横綱が、衰えから下半身が付いていかなくなり、下位力士に容易くいなされる。端から客観的に見ていれば、その光景の原因とその帰結は明らかであるにしても、本人の中では不思議な事であるだろう。俺はこんな筈ではないのだが。何故こんな事になるのだろう、と。

イメージの中で肥大した自己認識、それが俺達を苛む。

俺も、酒さえ止めて再び世間に出れば、もう一度やり直せる、どこかでそう思っている。自信は、ある。しかしそれは、まさしく短距離走で横転した俺の親父と同様に、肥大した挙げ句に先行し過ぎたイメージなのかも知れない。

果たしてどこの誰が俺を必要とするのか。それを考えた時に、俺は途方に暮れる。

高橋と会うべきなのだろうか、会わざるべきなのだろうか。俺はあいつを憎んでいる。しかし、金の事を考えれば会わざるを得ない。

謝罪の言葉など要らない。金を返せ、俺のこの数年間を返せ、というのが素直な気持ちだった。静かに煩悶する俺の肩を、背後から明子が叩いた。

「お風呂、沸きましたよ」

ああ、と鷹揚に答える。立ち上がって風呂場へ向かう。酒の残る身体のせいで、足取りが重い。

風呂は、少し熱かった。しかし、少し熱いくらいが丁度良い。全身をくまなく洗う。石鹸の泡立ちが悪い。風呂はとんと無沙汰をしていたから、垢も溜まっていたのかもしれない。鏡を見れば、随分と伸びた無精髭が目に付いた。それも全て綺麗に剃り落とす。一連の作業を終えて、熱い湯船に身体を浸していると、風呂場のドア越しに明子の声が聞こえた。

「ねえ、あなた」

ガラス張りのドアの向こうに明子の全体の輪郭がぼんやりと浮かぶ。

「うん、何だ」

風呂場の中に俺の声が奇妙に残響する。

「高橋さんの所に、行くの?」

暫らく考えて、答えた。

「ああ。あまり会いたくはないんだが、少なくとも持ち逃げされた金ぐらいは返してもらおうと思っている。あいつの方から返したい、と言っているのだから」

「そう。それぐらいなら良いかも知れませんね。あなたも、お酒ばかりの日々ですからね。少しは表に出て下さいね、近所の酒屋さんばかりでなくて」

「わかっている。ちょっとした散歩がてら、それぐらいの気持ちで行ってくる」

「わかりました。着替え、ここに置いておきます。シャツの胸ポケットの所に高橋さんの名刺を入れておきましたからね。気をつけて行って来て下さいね」

「ああ」

明子の輪郭が、ドアの向こう側からなくなった。俺は、熱めの風呂に、出来る限り長く浸かって、汗をかいた。溜まりに溜まった身体の中の老廃物が汗と共に流れ出していくのがはっきりとわかった。なかなかに気分が良い。

風呂から上がって、髪を乾かしてから明子の用意しておいた着替えを身に纏う。シャツにはアイロンが効いている。自分の身体から、酒の匂いではなく石鹸の匂いが漂っている事にもいささか驚いていた。

出かける前に、もう一本、煙草を吸った。

玄関まで明子が見送りに来た。

「行ってくる」

「行ってらっしゃい」

(つづく)

| | コメント (0)

現代版「芝浜」5

(これは、古典落語の演目である「芝浜」という話を元に創作したフィクションです。)

現代版「芝浜」1
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-cc30.html

現代版「芝浜」2
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-9ef9.html

現代版「芝浜」3
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-7cda.html

現代版「芝浜」4
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-81e1.html

あれはこの間の事、私が買い物をしに外へ出た時の話だったわ。

あなたはいつものように酔っ払ったまま寝てしまって、なかなか起きなかったんです。あたしは、いつもの事か、って少しうんざりしながらも、でも、不思議とその日は朝から機嫌が良かった。そういう事ってあるでしょ?何故か機嫌の良い日。そういう日でもないとやってられませんわ。あなたはいつでも酔っ払って不機嫌。あたしまでが一緒になって塞ぎ込んでたら、それこそ世界の終わりですよ。あたしは機嫌の良い日はなるべく機嫌良くし続けようと思っているんです。

それで、その日は起き抜けのあなたにおうどんでも作って差し上げようと思って、ご近所のスーパーに買い物に行ったんです。あなたが以前あたしの出汁の取り方を褒めて下すった事があったでしょう。あたしあれが嬉しかったんです。起き抜けで、そんなにしっかりしたものは食べたくないかも知れないと思って、それだったらあなたが以前喜んでくれたおうどんを、って思ったんです。やっぱり何だかんだで、あなたが喜んで下すったらあたしだって嬉しいんですもの。

家を出てすぐに、黒猫が一匹、家の前にいました。恐らく野良猫です。すごくみすぼらしかったんですけど、不思議とどこか憎めない風体でした。顔だけ見ればなかなかの美人だったかも知れません。はっきりと顔は思い出せませんが、その印象は覚えています。

あたしと黒猫の目が合いました。黒猫は暫くあたしの事を見つめてから、さっと身体を翻して、そう、まるで「ぼくに付いておいで」って言ってるみたいでした。あたしはゆっくりと黒猫の後を付いて行きました。黒猫は路地をぐるりと回って、丁度この家の裏側まであたしを連れて行きました。裏に何本か梅の木があるでしょう。あれが幾つか花を咲かせていました。もうすぐ綺麗に咲き揃うと思いますわ。あたしが梅の木を見ながらそんな事を考えていると、黒猫はまたあたしの方を向いて、にゃあと一言発して、すぐにまた歩き出しました。今度はどこへ行くのだろうと思っていると、また路地をそのまま進んで、結局路地をぐるりと一周した格好で、我が家の玄関の前まで戻って来ました。どこかへ連れて行ってもらえるのかな、なんて期待していたあたしは、何だか肩透かしを食らったみたいになって、何だ、同じ所か、とちょっとがっかりしていました。黒猫は黒猫で、家の前まで戻ってきた途端に、一目散にどこかへ走って行ってしまいました。

黒猫のいた地面から目を上げると、そこに高橋さんがいたんです。あの、高橋さんが。

あたしは言葉が出ませんでした。いえ、出て来なかった、という方が正しいのかも知れません。あまりにも驚いてしまいました。けれど、ひとしきり驚いた後に、よくもあたし達の前に顔を出せるものだと思い直しました。あんな事があったんですもの、あたしだってあの人の事は決して良くは思っていませんわ。あの人があなたの会社のお金を持ってどこかに行ってしまわなければ。これまでに何遍だってそう思いました。

あたしが、「何のご用ですか」と口を開こうとした瞬間、高橋さんは勢い良く、本当に勢い良く地面に伏しました。額を何度も何度もこすりつけながら、あたしに謝罪の言葉を投げかけて来ました。ちょっと、ご近所の目もありますからどうぞお顔を上げて下さい、ってあたし、お願いしたんです。でも高橋さんはずっと土下座の姿勢のまま動かなかった。人に頭を下げられるのって、あまり気分の良いものではないんですね。あたし、あの時初めて知りました。

高橋さんには、高橋さんの事情があったみたいです。

でもそれはみんな同じ事でしょう?それぞれ、複雑な事情を抱えながら生きている、あたし達だってそうじゃないですか。だからあたしは高橋さんの事情は聞きませんでした。事情を話すならば主人に言って下さい、謝罪の言葉ならばまずは主人にお願いします、って。あたし、そう言ったんです。そうしたら高橋さん、立ち上がって下さいました。

ゆっくりと立ち上がった高橋さんの背広は、膝の所が地面の砂で真っ白に汚れていましたし、顔にも砂の汚れがついていました。少し涙も流してらしたんで、顔の汚れが酷く目立って、あたしそれを変に覚えています。

まずは主人に。あたしの言ったその言葉を高橋さんもしっかり受け止めて下すったみたいで、立ち上がってからもう一度、深く頭を下げてから高橋さんが何故あたし達の家を訪ねて来たか、教えて下さいました。詳しい内容は知りませんけれど事情があって会社のお金を横領した事、その後何とか持ち直して今は彼自身も会社を経営している事、あなたに対してこれ以上ないほどの罪悪感を感じている事、そんな事を。

それから、あなたの会社から持ち出したお金を全額返させてくれないか、そうおっしゃいました。あたしは預かり知らない事だったんで、まずは主人と話をしてほしいと、それを頑なに言ったんです。

そうしたら高橋さん、この名刺を下さいました。どんな用事や商談よりも最優先させる、そんな事をおっしゃってましたよ。だから、あなたにどうしても会いたい、って。

だからあなた、今日にでも高橋さんのところに行って下さいませんか?お酒なんて呑んでないで。お金の為じゃないの。あたし達夫婦が、あの日の出来事に区切りをつける為なのよ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そこまで話すと、明子は電池でも切れたかのように黙り込んだ。事の経緯にも驚いたが、明子がここまで色々と話すのを聞いたのも初めてだった。俺はその事にも少し、面食らっていた。

俺は静かに眼を閉じた。幽かな眩暈を感じた。

「名刺を、見せてくれないか」

目を閉じたまま、俺は明子に言った。

明子は箪笥の中にしまっておいた名刺を俺に手渡した。

名刺を見て驚いた。暫く仕事や社会からも離れていた俺でも名前ぐらいは知っている会社の名前がそこにあり、そしてその下には代表取締役という肩書きと、高橋の名前があった。

会社の住所は、港区の芝、とあった。

(つづく)

| | コメント (0)

現代版「芝浜」4

(これは、古典落語の演目である「芝浜」という話を元に創作したフィクションです。)

現代版「芝浜」1
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-cc30.html

現代版「芝浜」2
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-9ef9.html

現代版「芝浜」3
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-7cda.html

明子。

俺は妻を呼んだ。

「水を、汲んできてくれないか」

起き抜けの俺の声が弱々しく部屋に響いた。明子は俺の目を見て、頷くでもなく無視するでもなく、無表情のままに台所へと向かった。水道の蛇口から勢い良く水の流れ出る音が聞こえる。宿酔いの頭痛をごまかす為に、適当にこめかみを揉んだ。

明子が、コップになみなみと注がれた水を持って俺の傍らへと来た。俺は無意識の内に明子と目を合わす事を避け、そのコップを手に取った。一口、含む。酒のせいで乾いた身体に、カルキ臭い水道水が甘露のように染み込む。

「酔い覚めの水、値は千両と決まりけり、か」

俺が呟く。呟いて明子を見れば、明子の顔には怒りを通り越してほとほと呆れた色が漂う。決まりが悪い。

明子が、俺にも聞こえるようなふうっという音を立てて、深く溜め息をついた。俺の傍らに腰を下ろす。焦点の定まらないような視点で、明子は自分の膝頭の辺りを斜めから見下ろしている。

「ねえ、あなた」

ぼそぼそと、辛うじて聞き取れるほどの声で明子が呟いた。

「お願いですから、もう一度働きに出て下さいませんか?」

力無く、そう言った。俺は、何も言葉を返さなかった。

「もうずっと、一年近くもこのままじゃないですか。あなたは毎日酔っ払ってしまうし、お金はもう全然無いし、もうあたし、どうしたら良いんだかわかりません」

今度は先程よりも少し、語尾を強めて言った。俺はいささかの鬱陶しさを感じながら、適当に首を縦に振った。頷いたつもりだったのだが、それは寧ろうなだれていたように見えていたのかも知れない。

暫らくの沈黙の後、ゆっくりと顔を上げてみると、明子は目に涙を溜めていた。この一年の間に、俺は明子の涙を見慣れてしまっていた。泣いたってどうにもならないものはどうにもならないのだ。俺は心の中でそんな事を呟いた。

明子が、口を開いた。

「ねえ、あなた。昔あなたが会社をやっていた時、会社のお金がなくなった事あったでしょう。覚えてますか?」

「ああ、忘れもしないよ。高橋の野郎。今考えれば、あれが全ての始まりだったんだ。あいつが俺たちの金を持って飛んだりしなけりゃ、今の俺たちはこんな生活になってないんだ」

「そうね、そうかも知れないわね」

明子はそう言って何か考え事でもしているかのような表情を浮かべた。

「あの頃に、戻りたいと思う?」

明子が俺に聞いた。

「出来るならば、な。戻りたくないと言ったらやはり嘘になる。俺だって仕事はしたいんだ」

俺はそう答えた。

「もし今、高橋さんに会ったら、あなたは何て言いますか?」

「高橋に、か?」

「ええ」

「何かを言うよりも先に殴りかかってしまいそうだ。お前のせいで。俺たちは今こんなに苦しくて。そう思うからな」

「そうですか。でも、そんな事したって今日の生活は何も変わらないわ」

「変わらないよ。ただ、単なる憂さ晴らしだ」

以前の会社の事、高橋が金を持って消えた事、そして金庫の中にあったあの殴り書きのメモ。様々な事が俺の脳裏に鮮明な映像となって蘇って来た。宿酔いのせいもあったが、何よりもその昔の事を思い出す事で不愉快を感じていた。苛ついて、酒が呑みたかった。

「おい、酒、ねえか」

俺がそう言うと、明子は静かに首を横に振った。

「ある訳ないでしょう。あなたが全部呑んでしまいましたわ。それに今日は、どうしてだってお酒は出せません」

「何故だ」

明子は何か決心を固めるかのように、一つ、深い深呼吸をした。

「あなた、お願い、大事な話があるの。きちんと聞いてくれる?」

ゆっくりと、しかし確かに、明子はそう言った。

「何だ、一体」

俺は明子が言葉を続けるのを待った。

明子は俺の傍らに腰掛けたまま、視線を未だ下方で泳がせている。かりっと、爪を噛んだ。明子が何か思い考えている時の癖だ。

明子が、顔を持ち上げた瞬間、目と目が合った。そして、明子は言った。

「この間ね、高橋さんに会ったの」

俺は、耳を疑った。そして、確認するように聞いた。

「高橋は、あの高橋か」

「そうです、あなたの会社にいた高橋さんです。この家の、すぐ近くで会いました」

高橋は近くにいるのか。そう思うと俺の心は血気に逸ったが、出来うる限りの平静を装って、明子に聞いた。

「偶然会ったのか」

「どうでしょう、偶然、ではなかったかも知れません」

明子はそう答えた。

「偶然でない、となると何なんだ。向こうもこちらも連絡先など知らない筈だ」

明子はまた暫らく考え込んだ。私は焦って続けざまに聞いた。

「何があったんだ。きちんと俺に説明しろ。俺には聞く権利がある筈だ」

明子は一瞬だけ沈黙したが、意を決したように口を開いた。幾つかの運命の悪戯が、共通したある一つの方向へ向かい始めているのかもしれない。俺は、そう感じた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

あれはこの間の事、私が買い物をしに外へ出た時の話だったわ。

(つづく)

| | コメント (0)

現代版「芝浜」3

(これは、古典落語の演目である「芝浜」という話を元に創作したフィクションです。)

現代版「芝浜」1
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-cc30.html

現代版「芝浜」2
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-9ef9.html

その頃から、俺の頭と身体はどうしようもないほどに酒を求めた。自分でも困惑するほどだった。朝、目が覚めると、俺という人間の隅から隅までが酒を欲しているのがわかった。何故だろうと自分でも訝るほどに、それは強烈な欲求だった。

俺はその欲求に抗わなかった。もうあまり金がない事は重々承知していたから、安い酒に酩酊を求めた。焼酎、ワンカップ、最近では発泡酒なんてものまであった。日本にはありとあらゆる所に酒が溢れている。酒呑みにとっては天国だな、と、最早酒呑みになった自分を鑑みて苦笑した。

細々と続けていた駐車場警備のアルバイトも休みがちになった。目覚めの億劫さが、働く事を拒絶した。これまで一生懸命やって来たじゃないか。明子の為に、部下の為に。少しぐらい自分を甘やかした所で誰が非難の言葉を吐けると言うのだ。そんな言い訳を自分の為に用意して、俺は酩酊の海へと、日々沈み込んでいった。

職を失ったのはそれから間も無くしてだった。警備会社の上司から、はっきりとクビを言い渡された。その時も俺は、確か、へらへらと薄笑いを浮かべていたような記憶がある。上司は別れ際に言った。

「あんた、大分変わったな」と。

弁当屋の職を辞した時とは雲泥の差だった。俺は、明らかに蔑まれていた。

自棄酒だ。帰り際にそう独りで呟いた時に、俺は奇妙な気持ちになった。職を失った事で自棄酒を呑むという口実を俺は発見し、寧ろ堂々とした感情さえ抱いていた。俺は職を失った失意の底にいる。そんな俺を慰める為に酒を呑むんだ。何だよ、目出てえな。そう自嘲した。

帰りに買った安いウォッカの瓶を一つ空けて家に帰り着いた。明子が、俺を見ていた。

「あなた、今日はお仕事に行ったんじゃなかったの?何でお酒を呑んでるの?」

明子は声を震わせながら俺に詰め寄ってそう言った。

「クビだそうだ」

俺は一言だけそう言って、不貞寝をする為に万年床へ向かった。背後で、明子の漏らした嗚咽が微かに聞こえた。それが、俺の癪に障った。俺は、近くにあった灰皿を明子に向かって力任せに投げつけた。

幸いにして灰皿は明子に直接は当たらなかった。明子の頬のすぐ横を掠め、箪笥にぶつかって、大きな音を立てて、割れた。

「掃除をしておけ」

そんな言葉を吐いて、俺は泥のような暗い眠りについた。

その日からだ、何度も何度も、悪夢で目を覚ますようになったのは。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

暗い箱の中に俺は閉じ込められている。膝を折って、その箱の中で独り息を潜めている。何の音も聴こえない。一筋の光も届かない。時が流れているのかさえも疑わしい。
閉じ込められた囚人の事を思う。誰も知らない地球の果ての片田舎で、閉じ込められた囚人の事を。ただ飯を喰らい、ただ排泄し、ただ眠る。回り続ける円の中から逃れる事も出来ずに、静かにじっと、死ぬのを待つ。そんな囚人の事を。暗い暗い、箱の中で。
その箱が唐突に激しく揺れ始める。俺は狼狽すると同時に何か事態が好転するのかという淡い期待を抱く。俺はここから抜け出せるのだろうか、俺はまた光を見る事ができるのだろうか、と。
俺の淡い期待を余所に、事態は更に混迷する。箱が、どすんという大きな音を立てて横向きに倒れる。いや、横向きに倒れたのかどうかは分からない。俺は箱の中にいるのだから。どちらが上で、どちらが横なのか、視界を奪われた俺には皆目見当もつかない。ただし、俺に許された数少ない器官、聴覚と触覚が、どすんという何かしらの音と、そして身体に伝わった衝撃とによって、「箱はおそらく倒れたのだ」という予測情報を俺に伝える。
箱は、「おそらく」倒れた。
箱が倒れたのであれば、何者かが倒した、と考えるのが妥当だ。それは俺に好意を持った何者かなのか、或いは悪意を持った何者かなのかはわからない。しかし、俺と箱とを隔てて、すぐそこに他者がいる。おそらく、何かが、いる。
いずれにせよ俺は箱の中だ。何をどうする事もあたわない。観念して、覚悟を決めるほかない。ごくりと唾を呑み込む。その音は、まるでマイクロフォンで拡声されたかのように、俺の頭蓋骨の中で響く。ごくり。残響する。
暫らく、静寂が続く。永遠にも続く、永い時間に感じられる。
その刹那、俺は傍らの頬に何とも名状しがたい違和感を覚える。
何か、ぬめっとした液体が俺の頬を濡らす。即座に何かはわからなかった。
液体は、徐々にその嵩を増してくる。横臥した俺の身体も、その液体に浸され始める。
俺はその液体が何なのか、把握するに至った。
液体は、血だ。
鉄臭い匂いが鼻腔をつく。指先につけて舐めてみる。間違いない、血の味だ。
身体には痛みはない。おそらく、俺の身体から出た血ではない。誰かの、何者かの血だ。
俺は、閉じ込められた暗い箱の中で、何者かの血によって、浸されていく。たまらない吐き気を感じた。しかし、どうする事も出来ない。まさか、俺は何者かの血によって溺死するのか。箱の中で、半狂乱になった俺は暴れ出そうとするが、箱の狭さがそれを遮る。
一体どうなると言うのだ。
誰が、何故、俺をこのような目に遭わせるのだ。
俺は、このまま死にゆくのか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そう思った所で、目が覚める。

夢であった事を確認して、俺は安堵する。そして、絶望する。

悪夢の続きのような現実が待っている。俺は今日も酒に酔い、そして眠り、この悪夢を見る。

ずっと、こういう事が続いていた。

(つづく)

| | コメント (0)

現代版「芝浜」2

(これは、古典落語の演目である「芝浜」という話を元に創作したフィクションです。)

現代版「芝浜」1
http://takeshi-fiction.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-cc30.html

安心した、という事とは少し違うのかも知れない。本当に、糸が切れた。多分、単純にそういう事だった。

入院費用を多目に見積もって、俺は寸暇を惜しんで働いた。俺が一切の贅沢をやらず倹約に努めた事もあって、アルバイトとは言えど貯金も出来た。明子が予想していたよりも随分と早く退院出来た事で、金に少しだけ余裕が出た。

「あなた、本当にありがとうございます。ねえ、お願いだから少し休んで。あたしの傍に、いて」

明子は俺にそう言った。

俺は弁当屋を辞した。事情を話したら、社長は一言「わかった」とだけ言った。俺は丁寧に礼を言った。店を去る際に、社長は呟くように言った。

「俺もあんたぐらいにカミさんを大事にしてりゃァなあ」

そう言って苦笑した。俺も苦笑した。

残った駐車場警備のアルバイトは、細々と、ペースを緩やかに変えて続ける事にした。それまで週に七日働いていたのを、週に三日働く事にした。俺は、圧倒的に家にいる事が増えた。

確かに、久しぶりの、安息だった。しかし、それと同時に俺の頭の中で、ノイズのような音が目立ち始めていたのも自覚していた。

ジジ…ジジジジ…と、微かに響いていた。

ある日の休日の事だった。明子が外に買い物に出た隙に、俺の胸の内に悪魔が現れた。俺は、酒が呑みたかった。

酒は、止めていた。会社を潰してからはそれどころではなかったし、時間も金もなかった。贅沢をやらない事で、自分を奮い立たせている節もあった。元々は俺は酒が好きだったのだ。好きなものを断って、何かの願掛けのようにして、俺は自分を奮い立たせていた。

一息付いた所で脳裏をよぎった酒、である。抗えなかった。

よれたシャツに、ジャージのズボンというだらしのない格好で外に出た。太陽の日差しを随分と眩しく感じた事をやけに覚えている。

俺は近所の酒屋で一本のビールを買った。家に帰るまで待ちきれなくなり、酒屋と家の間にある公園のベンチに座り、缶ビールのプルタブを起こした。一瞬、躊躇もしたが、目の前のビールの誘惑に負けた。一息に呑む。喉を通り過ぎ、胃に冷たい液体が辿り着くのがわかる。美味い。本当に、信じられないような美味さだった。二口程で俺はビールを呑み干した。まだ、呑みたい。そう思った。

俺の足は、家ではなく、先ほどビールを買った酒屋に向かっていた。

結局、最初のビールを別にして、あと二本のビールとワンカップの日本酒を三本呑んでいた。久しぶりに呑んだ事もあり、俺は酔っ払っていた。

家に帰ると、明子がいた。酔っ払っていた事もあり、俺は目を合わせるのを避けた。お構いなしに明子が俺の元へ寄ってくる。

「ねえ、今日は魚屋さんで鯖が安くてね、安いけど良い鯖なの。晩は味噌煮にしましょう」そんな事を言いながら。

「あら、あなた…」

明子が俺の酒の匂いに気付いたのは明白だった。

「ちょっと呑んで来たの?」

俺は鷹揚に首を縦に振った。明子は、ほんの束の間、時間にして7、8秒、黙り込んだ。それから思い直したかのように口を開いた。

「でもずっと働きっぱなしだったものね、あたしの為に。良いじゃない、たまに呑むぐらい。あたし、気にしないわ」

俺に言っているというよりは、明子は自分に言い聞かせているように見えた。

「ちょっと横になりたい」

俺は明子にそう告げて、部屋の中でごろんと寝転がった。

頭に浮かんでくるのは、先程の酒のえもいわれぬ美味さばかりだった。あの日本酒。あのビール。頭の中で酒の記憶だけがぐるぐると回っていた。俺は、まだ酒を欲していた。

(つづく)

| | コメント (0)

現代版「芝浜」1

(これは、古典落語の演目である「芝浜」という話を元に創作したフィクションです。)

またか、と狼狽した。

悪夢にうなされて、目を覚ました。

深酒をして目覚める時、いつも必ずとは言わないが、しかし相当の頻度でこの悪夢を見る。

額にねっとりとした汗をかいている。寝間着の袖でいい加減にそれを拭う。身体の節々に鈍い痛みが残っている。続いて嘔吐したいような不快感が俺の胃を圧迫した。

俺の身体と精神に何が起きているのか。悪夢の印象もまだ覚めやらぬ頭で、不安を感じた。

こうして朝起きれば、いつも俺は不安に苛まれる。不安は暫く経っても俺の元を去らず、面倒臭くなった俺はまた酒を呷る。もういいだろうと我ながら思うほどに酩酊した辺りで、やっと眠りに落ちる。ただひたすらに、そればかりを繰り返す。どこへも進まない。ただ、同じ所をぐるぐると回っている。

緩やかに、俺は自殺をしているのだ。

職を失い、少しながら蓄えていた貯金も底をつき始めている。安い酒と、安い生活。うんざりするような日々から、抜け出す気力もない。

「あなた、起きましたか」

妻の声が聞こえた。

ああ、と投げやりに言葉を返す。後ろめたさばかりが日ごとに増していく。

明子。俺には、妻がいた。若い頃、俺がまだ仕事に心を砕き、目の回るような忙しさの中で、俺の心を少なからず癒したのはこの明子だった。身体が弱かった為に子供を身ごもる事さえなかったが、それでも俺は毎日に充足していた。俺を頼る部下。頭を下げる得意先。そして俺を愛する妻。全ては俺の願い通りだった。

ある日当時の部下が、会社の金を持って、飛んだ。金の管理に疎かった俺は、その部下に全てを任せていた。名を高橋と言った。

預金通帳と印鑑と現金。それら全てが金庫からなくなっていた。まるで奇術か何かで消し去ったかのように。がらんとした金庫の中に、高橋の筆跡で「許して下さい」とだけ殴り書かれたメモが残っていた。激しい眩暈がしたのを、よく覚えている。

結果として、俺は高橋を許した。勿論、はらわたは煮えくり返っていたが、俺は高橋にヤクザなり取り立て屋なりの追っ手を差し向けるような事はしなかった。そういった連中との付き合いにかなりの面倒を感じていたという事もあったが、何よりも「何とかなるのだ」という俺の自信が一番の原因だ。物事は全て上手く廻っていたし、自分の腕一つで会社を興した自負もあった。俺は、全くもって高を括っていた。

その月に早くも、支払うべき家賃が焦げ付いた。

そこからは簡単だった。転がり落ちるように俺は全てを失った。金、車、家。残ったのが目の前の明子だけだった。

折しもそれとほぼ同時に、明子は体調を崩した。元来強くなかった身体が、そういった一連の転落劇で悲鳴を上げた格好だ。

何とかしなければならなかった。

俺は自分の会社を潰し、全ての物を売り払って負債によって抱えた借金を返した。明子の入院費用を捻出する為に、アルバイトも始めた。弁当屋で弁当を売り、デパートの駐車場の警備員をした。自分で言うのも何だが、仕事の覚えは早い。職場でも重宝され、俺はよく働いた。

ぎりぎりの生活ながら、明子の入院費用は払い続ける事が出来た。入院している間、明子はいつも申し訳なさそうにしていたが、気にしなくて良い、俺はそう言って明子を励ました。

明子の体調も日に日に回復の兆しを見せ、自宅療養を前提に、明子は退院した。二年前の春の事だった。

そこで、俺の緊張の糸が、ぷつりと、途切れた。

(つづく)

| | コメント (0)

«夕飯